こんにちは、大阪駅前の税理士法人トップ財務プロジェクトの岩佐孝彦です。
今日の一冊はこちら。
『世襲企業の興亡 同族会社は何代続くか』有森隆(さくら舎)
それでは本日の赤ペンチェックを見てみましょう。
▼世襲&同族企業には四(死)の盲点がある。
一つ目は、公私混同。経営者が企業を私物化することだ。
二つ目は、骨肉の争い。
三つ目は、血は、水より濃いことを態度で示す親バカ(ちゃんりん)。
四つ目は、自信過剰。運がよくて企業が発展したのに自分の力だと錯覚する。
1.大王製紙(井川家) - 二代目〝中興の祖″の独裁
▼106億円を使い込んだ三代目の逮捕
<大王製紙あっての井川家。井川の家はすべてにおいて大王製紙の利益を優先させる>
大王製紙の創業者、井川伊勢吉は1990年に亡くなる直前、『井川家の心』と
名づけた家訓を残した。
倒産の屈辱を味わった伊勢吉がいまわの際に一族に伝えたかったのは「会社を
強くしなければならない」という創業者の執念であった。
だが、創業家三代目の井川意高にとって、家訓はまったく無意味だった。
会社を財布代わりに使い、大王製紙のブランドイメージを失墜させた。
▼高雄は、幼少のころから徹底した英才教育をおこなった。
小学生のころには、愛媛の実家から飛行機で東京の塾に通い続けたという
エピソードが残る。名門・筑波大学付属駒場高校から、東京大学法学部に
現役で合格した。
高雄は帝王学と称して、惜しみなく金を与えた。自分の金を使って遊び方
を覚えさせる、というのがその理由だった。
意高は東大在学中から、銀座の高級クラブで豪遊していたという。
▼〝中興の祖″と畏怖されてきた父親の影響力から抜け出せるのは、夜の
世界だけである。東京・八重洲の東京本社とは目と鼻の先の銀座は避け、
気楽に遊べる六本木や麻布に、毎日のように足を運んだ。
▼一晩で5億円をすったカジノ狂い
▼大王製紙はコンプライアンス(法令順守)をないがしろにしていたわけ
ではない。内部統制制度は、正確かつ無駄なく、法令にしたがって会社
が活動しているかどうかをチェックする体制を整えていた。
ただし、<井川父子をチェックすることは求められていない。大王製紙
グループ内では、井川父子に異を唱えることは求められていないのである>
不祥事の再発を防止するために、特別調査委員会が、井川父子が持つ絶対的
な支配権を薄めるよう求めたのは、大王製紙がいかに異常な状態にあったか
を如実に物語っている。
2.ワコールホールディングス(塚本家) - 初代に潰された二代目
▼「家督は息子、経理は番頭」が近江商人の流儀
1977年7月23日、ワコール本社定例管理職会議の席で幸一は、「私は
10年後、昭和62(1978)年に社長の椅子を退く。後継者には長男の
能交を推したい」と宣言した。
当時、幸一は56歳、能交は29歳。「十年一節」の経営計画をかかげる
幸一は、退任する10年前に後継者を指名したのである。
このことが社外に公表されると、「企業の私物化」とマスコミから
袋叩きにあった。
能交が社長の器かどうかまだ、まるでわからないのに、なぜ世襲を打ち
出したのか。
近江商人の家系だからというのが、その一つの答えだろう。
京都の商家にとって、最優先事項がイエ(家)の存続である。
家督・家産は当主個人のものではなく、先祖からの預かりもので、子孫に
譲り渡していくものなのである。当主は、イエ(家)・ビジネスを遂行する
一つの機関として位置づけられている。
家督を相続する当主は、必ずしも経営への意思や能力という基準で選ばれる
わけではない。イエを存続させるために、経営は有能な番頭たちに委譲された。
「所有と経営の分離」である。
イエという概念には当主家族ばかりでなく、奉公人までが含まれている。
この考えを幸一は行動で示した。
▼父・幸一とは、ワコールに入社するまで、まともに会話したことがなかった。
父は仕事で飛び回り、めったに家に帰らなかった。たまに家にいても、会話は
ほとんどなく、よく手が出た。口より先に手が出たのだ。
▼能交は親父恐怖症になった。会えば叱られるだけなので、父親には、できる
だけ会いたくなかった。
「僕には、反抗期らしきものがないんです」と能交は語っている。
「何かすれば、叱られる。それなら何もしないほうがいい」
消極的で臆病な子供に育った。芦屋大学教育学部を卒業したものの、父親が
いるワコールには入りたくなかった。
▼父親の目が黒い間、息子が我慢に我慢を重ねている場合、ひとたび親父が
亡くなると、それまでたまっていた不満が爆発して、大失敗する。
幸一はそれを怖れた。小さな失敗を経験させることによって大失敗を回避
できた、というのである。
まことに苦しい、幸一の言い訳である。
幸一は結局、能交から子離れできなかった。一方、能交は親離れできなかった。
▼父親や、幸一の側近たちは、神輿にかつがれているはずの能交が、突然神輿
から降りてきて、新規事業について直接指示を出すことが理解できなかったの
ではなかろうか。
経営は番頭に委譲するのが、近江商人のしきたりだったからである。
能交は、自ら経営を継承していこうとする意思を持っており、同族企業とはいえ、
欧米の経営者の心情に近かった。
父親と息子の経営に対する考え方は水と油。混じりあうことはなかった。
▼ボンボンが手玉に取られただけ、大失敗のM&A
ワコールによるPJの買収は大失敗だった。伸び悩む下着部門を強化する狙いで
買収したのだろうが、後ろ向きの案件の後始末に追われた。
▼ボンボンの能交よりも、美佳のほうが役者は数段上。
PJのM&Aでは、能交は美佳に手玉に取られたことになる。
そして、これからも巨額の配当金の支払いを約束させられているようなもの
なのだ。
3.セイコーホールディングス(服部家) - 華麗なる一族の骨肉の争い
▼一族期待のプリンスが突然死
「1987年が分岐点だった」
この年の5月26日、セイコーエプソンとセイコー電子工業の社長だった
服部一郎は、静岡県伊東市の川奈ホテルゴルフ場の富士コースでおこなわれた
国際ロータリークラブ親善ゴルフ大会の最中、あと2ホールを残したところで
急死した。まさにサドン・デス(突然死)。
死因は心筋梗塞。55歳の若さだった。
グループの衝撃は小さくなかった。クオーツ時計でいったんは優位に立った
セイコーは円高やスイス勢の巻き返しにあい、ブランドの輝きが曇ってきた。
▼創業者の金太郎の死後、「服部一族は相争って半世紀」と揶揄されるほど、
兄弟間の諍いが絶えなかった。本家と分家の争いである。
本家の二代目の玄三が亡くなり、分家の正次が事業を継承し「世界のセイコー」
に押し上げた。正次亡き後は、本家に大政奉還された。
▼資本と経営の分離が脱・〝服部商店″のカギ
セイコーグループは企業同士の資本関係が希薄である。親会社、子会社の
関係ではなく、創業者一族やその資産管理会社が各社の株を保有する横並
びの関係だ。
セイコーグループは、創業一族が資本家として出資するという、明治時代
からの初期資本投資主義の形態を残している稀有な存在なのだ。
アナリストは「中・長期の資本政策の欠如が求心力を弱め、グループの発展
を阻害してきた」と指摘する。
グループが危機に瀕したとき、分家筋から救世主が出るというジンクスが
ある。〝服部商店″から脱皮できるか否かは、ひとえに資本関係の整理が
できるかどうかにかかっている。
君臨すれども統治せず。資本と経営の分離が急務である。
今日も社長業を楽しみましょう。