こんにちは、大阪駅前の税理士法人トップ財務プロジェクトの岩佐孝彦です。
本日の一冊はこちら。
『名家の家訓 人生を開く「処世の言葉」』山口秀範(三笠書房)
それでは本日の赤ペンチェックを見てみましょう。
▼慢心を戒めて、信念を貫く 岩崎(弥太郎)家の「家訓」
一、小事にあくせくするものは大事ならず、よろしく大事業を経営するの方針を執るべし
二、一度着手した事業は必ず成功を期せよ
三、決して投機的の事業は企てるなかれ
四、国家的観念を以てすべての事業に当たれ
五、奉国至誠の赤心は寸時も忘れるべからず
六、勤倹身を持し、慈恵人を待つべし
七、よく人柄技能を鑑別し、適材を適所に用ゐよ
八、部下を優遇し、事業上の利益は成るべく多く彼等に分与すべし
九、創業は大胆に、守勢は小心なれ。
第四条と、第五条は弥太郎の真骨頂だ。すべての事業の目的は国家の繁栄に資すること。
そのために全力で国家の恩義に報いることを誓っている。
そして第六、第七、第八条は、経営者としての日常の心構えを説く。自らには厳しく
勤勉・倹約を課し、他人へは慈悲・恵愛の心で接すること。人材育成も同様に、社員を
よく知り活用して、その成果はできるだけ社員に還元せよという。
▼この「家訓」からなにを学ぶか
弥太郎は金銭にも厳しかったようだが、決してケチではなかった。
海運業から出発した弥太郎は、常に次の布石を打ち続け、いわゆる川上から川下までという
発想を持ってあらゆる事業にかかわった。
こうして、第九条「創業は大胆に」と、攻めの経営を貫いたが、継承者には一転して
「守勢は小心なれ」の言葉を与えて、攻守の使い分けを求めている。
▼人から求められる人、敬遠される人 島津源蔵「訓話」(事業の邪魔になる人)
一、 自己の職務に精進することが忠義である事を知らぬ人
二、 共同一致の融和心なき人
三、 長上の教えや他人の忠告を耳にとめぬ人
四、 恩を受けても感謝する心のない人
五、 自分のためのみ思ひ他人のことを考えぬ人
六、 金銭でなければ動かぬ人
七、 艱難に堪へずして 途中で屈服する人
八、 自分の行ひに就いて反省しない人
九、 注意を怠り知識を磨かぬ人
十、 熱心足らず実力なきに威張り外見を飾る人
十一、夫婦睦まじく和合せぬ人
十二、物事の軽重緩急の区別の出来ぬ人
十三、何事も行ふに工夫をせぬ人
十四、国家社会の犠牲となる心掛けのない人
十五、仕事を明日に延ばす人
「島津の退き口」と名高い関ケ原から退却途中の島津義弘一行が、播磨灘で海難に
遭ったときに多数の船を出して島津一族を救い、その功によって義弘から島津の姓と
「丸に十の字の家紋」を用いることを許されたという(島津製作所社史『島津製作所
の歩み科学とともに100年』より)。
▼信用を重んじ、確実性を第一に 住友家「家法」(営業の要旨)
第一条 我が営業は信用を重んじ、確実を旨とし以て一家の鞏固隆盛を期すべし
第二条 我が営業は時勢の変遷、理財の得失を計り、弛張興廃することあるべしと
いへどもいやしくも浮利にはしり軽進べからず
400年を超えて、世界でもっとも古い財閥の一つに数えられる住友家。
その源流は、平家一門の血筋を受けた戦国武将の住友忠重までさかのぼり、忠重は住友家の
「始祖」とされている。
▼この「家法」からなにを学ぶか
人は放っておくと「自利」に奔るので、日ごろから世のため人のために生きた偉人たちの物語
に親しむなど、「利他」の貴さを自覚したい。
やがて「利他」が習慣化されるまでになればしめたもので、私の友人の優良企業経営者たちは
異口同音に語っている。
徹底して「顧客のため世のため」を心がければ、求めなくても利益は上がってくるものだ、と。
それにしても、古くから続く商家の家訓には共通点がある。
「信用を第一とする」
「投機に手を出さないこと」
「人材を大切にすること」
「事業に尽くすことが国に報いることへ通じる」
等々。現代もそれらの家訓から学ぶことは多い。
▼本間(光丘)家「家訓」
一、よく子弟の教育をみてやり、忠孝の心を育むようにせよ。
一、富豪の子女と結婚するな。清楚な家庭の子女と結婚せよ。
一、世の中の人情に通じて心身を鍛えることが、一家を収めるのに必要なことである。
わが家の跡継ぎは、必ず全国を旅して歩け。
一、額に汗して得たものでなければ本当の財産とはいえない。すべての投機事業、他人
の資本を集めて行なう会社経営はしてはいけない。
▼この「家訓」からなにを学ぶか
子弟の教育、心身鍛錬、旅行の効用・・・と一家の跡継ぎへの具体的アドバイスとなっている。
とくに「清楚なる家庭の子女」を嫁にもらえというのが面白い。
大義をうたい公益を掲げる一文で、「額に汗して得たるもの」のみが真に力となるという、堅実で
愚直な教えを守り通したところに、本間家が並はずれた土地と財産を長く保持した秘訣があるのだろう。
▼島井宗室「十七条の遺訓」
「一生真面目に律儀に生きろ。親や親戚に孝養を尽くし、付き合いや寄り合いにおいても他人を敬い、
へりくだり、丁寧な態度で接すること。ばかげたこと、勝手気ままなことは慎め。嘘をつかず、他人が
大声でまことしやかにいうことの尻馬に乗るな。総じておしゃべりはあとで自分のほうに帰ってくる。
言質を取られそうなときは人から尋ねられても口を開くな。噂話は耳にいれないことだ」
金持ちほどいろいろな誘惑や罠が多いので、世間に惑わされず慎ましく暮らせというのが、孫に向かって
もっともいい遺したかったことか。
▼この「遺訓」から何なにを学ぶか
そもそもこの成功は宗室が勝ち取ったもの、つまり攻めの経営は血筋で踏襲できる業ではない。
しかし、守りの経営は意志さえ確かならば、誰にも必ず励行できると考え、一代の豪商が人生の終焉に
あたって、この十七項目を遺したと考えると、むしろ粛然と襟を正される思いである。
▼人の上に立つ人の絶対条件 安田(善次郎)家の「家訓」
収入の八割をもって生活し、他は貯蓄する。住宅用には身代の十分の一以上をあてない。
「私とて血も涙もある人間である。若いころからつぶさに辛酸をなめて今日に至ったのである。
人生の酸いも甘いもわきまえている。しかし、事業経営の方針のなかに人情を加えることは
できない。道楽や遊びで事業をやっているのではない。事業は事業、人情は人情だ」
▼この「家訓」からなにを学ぶか
リーダーは組織の模範である。
率先してよく勤めれば、部下がどうして怠けようか。
リーダーが倹約に努めれば、部下が贅沢に流れようか。
リーダーが公に生きれば、部下がどうして私欲に走ろうか。
リーダーが誠実であれば、部下がどうして悪に染まろうか。
▼リーダー論として作られた「十七条憲法」
聖徳太子は、仏教の興隆に努め、「冠位十二階」を定めて門閥によらない人材登用を
したりするなど、内政の充実にまず取り掛かる。
そして、国家の指針として「十七条憲法」を示した。
第十五条では、こういっている。
「消し去ることのできない私情であるが、その『私』というものに背を向けて『公』に
真向うことこそ臣の道である」
「私」が出てくると恨みが生じる。恨みがあると必ず相手と仲違いする。
「オレが、オレが」が結局、公を妨げることになる。恨みが起これば規則を破る。
だから、第一条で、「上に立つものが下に和らぎの心を注ぎ、下の者が上に対して
睦ぶ心で接する」といったのは、まさにこのことなのだ。
▼この「憲法」からなにを学ぶか
聖徳太子は、「『私』をなくせ」とはいっていない。「背を向けて」といっている。
先の大戦中に「滅私奉公」が戦争遂行のスローガン化されたが、「私」を無にして
公に尽くすのはやはり無理がある。
滅することのできない「私」を認めたうえで、私を超える「公」に向かう心のあり方
を聖徳太子は説いたのであろう。
▼ほとんどの「家訓」が、平時において現在および将来の子孫たち、あるいは社員に
向けて作られるのに対して、「遺訓」「遺書」はまさに自分の命が途絶えるというときに
「どうしても最後にいっておきたいこと」として遺すものである。
「遺書」は究極の「家訓」である。
今日も社長業を楽しみましょう。