こんにちは、大阪駅前の税理士法人トップ財務プロジェクトの岩佐孝彦です。
私どものクライアントは富裕層の方が多いのですが、そういった方々は皆さん、
成熟した大人でいらっしゃいます。深い教養をお持ちで、懐も深く、私は仕事
を通じ、お金を頂戴しながら勉強させて頂いている気分になります。(笑)
本当に有難い限りです。そこで、少しでも成熟した大人に近づきたいと思い、
手に取った本がコチラ。
『人間にとって成熟とは何か』曽野綾子(幻冬舎新書)
それでは、本日の赤ペンチェックをみてみましょう。
▼正しいことだけして生きることはできない。
すべてのことに善と悪の両面がある。
人間は誰でも、自分で自分を救わなくては生きていられないのだから、どんな
悪い境遇になっても必ず自分を生かす要素を見つけるものだ、と私は思っている。
私も年を取ったことについての意味のようなものは感じている。別に私ほど年を
取らなくてもいいのだ。しかし三十代は二十代とは違う。四十代は三十代とは
違う。肉体的能力はそれぞれ明らかに落ちているだろうが、長く生きてきた分だ
け、知的な蓄積が多くなるのは普通なのである。
▼自分の「福袋」ならぬ「体験袋」の中に、ゴミにも似た知識や記憶がたくさん
詰め込まれた実感を持つようになると、一つ見えてきたことがある。それは、善
でもなく悪でもなく、多くの場合、その双方の要素を兼ね備えているということ
だ。もっと私流の言い方をすれば、善だけの行為とか、悪だけの結果、というも
のはむしろきわめて稀であって、そういう純粋すぎる生き方・見方をする人と、
私はついぞ仲良くなれなかった面はある。
▼人間の心は矛盾を持つ。
現在でも私が日本で感心するのは、田舎のJAの人気のないオフィスの前などに
も置いてある飲み物の自動販売機が夜の間にも奪われないことだ。もちろん警報
装置はついているのだろうが、多くの外国では、あんな「宝の山」を放置する
泥棒はいない。自動販売機を1台盗めば、現金tの飲み物と機械そのものと、
三種類のお宝が一挙に手に入るのだから、必ず仲間と徒党を組んで盗みを働く
はずなのである。
▼私はニュージーランド政府が、外国のマスコミに見せたがる完璧に道徳的な
国の姿をよく理解した。この国の姿は、世界中がこうなるといいと思う理想の
形態をすでに取っていた。しかし、私の心の5%か、10%ほどの部分が、こう
いう国は本当に退屈だと思ったことも告白しなければならない。改めて言うが、
私は泥棒も嫌だ。不公平な身分格差のある社会も嫌いだ。しかし、そもそも矛盾
を含んでいる人間の心には、そうでない部分もあるのである。
▼人は公平、幸福、順調が何より好きだが、心の一部では、そうでもない要素
も求めている。つまり、不公平であることは十分知りつつ、時には桁外れの
豪華な暮らしや、家柄の故に不当に裂かれる悲恋も好きなのである。
▼それ以来、実は私はニュージーランドに行っていない。用事がないという
のが第一の理由なのだが、あまりに清浄すぎて、悪の匂いがする誘惑がない
ので、面白くない。
▼世の中は矛盾だらけだ。だから、いいことだけがいいのではない。
時には悪いことも用意されていて、その中から選ぶ自由も残されていた方が
いい。少なくとも、社会の仕組みにおいては、いささかの悪さもできる部分
が残されていて、人間は自由な意思の選択で悪を選んで後悔したり、最初から
賢く選ばなかったりする自由があった方がいい。
▼英語でワンダフルという言葉は、普通「すばらしい」と訳している。
つまり「りっぱ」とか「感動的だ」とかいう場合に使っている。その言葉の
背後には「期待していたよりもはるかによかった」というニュアンスが込めら
れているだろう。英語の「ワンダフル」は「フル・オブ・ワンダー」というこ
とで、実は驚きがいっぱい、ということだ。すばらしい、という表現の基本に
は「想定外」が含まれるらしい。もし想定通りに事が進んだら、必ずしもワン
ダフルではないのかもしれない。
▼人間社会の上に善悪の区別がはっきりしていることを信じている人を私は
避けている。そこには、人間理解の根本がないと思うからだ。
善しか人道として許されるものはなく、したがって自分は善を追う人道の道を
歩く、と簡単に信じ、信じているだけでなく、それを強烈にアピールする人と
私は付き合えない。なぜなら、少なくとも私は、そんなにいいことだけして、
生きようとしていないし、そう思う人は自己満足であって、何が社会や相手に
とって正しくいいことかそんなに簡単にはわからないことが多いからだ。
▼人は皆ほどほどの生き方をしている。身勝手なような人も意外と他者のこと
も心に留めている。社会正義は誰でも好きなのだが、それも時と場合と程度に
よって簡単には決められないと密かに考えて悩んでいる。アラブの人たちは、
この正義という点に関して、もっと大人で正直だから、彼らは格言の中で次の
ように言っている。
「正義はいいものだ。しかし誰も家庭ではそれを望まない」
の中で正義を貫いているというのは嘘だし、端的に住みにくくなるということ
だからだろう。
▼「苦しい時の神頼み」とはよく言ったものだ。人間はよく神と取引さえする
と言われている。もしあの人の苦痛を取って下さいましたら、病気が治りました
ら、生きて帰ってきてくれましたら、私はお茶を一生飲みません、甘いものを
絶ちます、というふうに神に報いようとするのだ、と言う。
私たちはそれもまた厳密な意味では禁じられていた。自分の利益のために、安易
に神と取引をしてはいけない。誓いも立ててはならない、と戒められている。
神などいるわけがない、と言う人は、人間の力だけが可能か不可能かを決める
のであって、それ以外の力が介在するわけはない、と思うのだ。しかし私はそう
ではなかった。私はたくさんのことを望んだ。しかし最後に私がすべきことと、
できることを決めたのは、私ではない存在の力が大きい、というのが私の実感
だった。
▼予期せぬことが起きるのが人生だ。まさに「想定外」そのものである。
予期せぬという言い方は、人間の分際から見た状態であり、神は人間の劇作
以上の複雑な筋立てや伏線を張った物語の展開の後に、その意図されることを
示す、というのが私の感じである。
▼ギリシャのストア学派の哲学者エピクテトスは次のように書いている。
「神々に対する敬虔の中で、一番肝要なことは次のことだと知るがいい。
一つは、神々について、彼らが存在し、そして宇宙を美しく、正しく支配して
いるという、正しい考えを持つことであり、もう一つは、彼らに服従するように
君自身を配置し、すべての出来事に譲歩し、それは最高の知によって行われてい
るのだと考えて、自らすすんでそれらに従うという、正しい考えを持つことだ。
というのは、そのようにすれば、君は神々を非難することもなかろうし、また
無視されていると苦情を言うこともなかろうから。」
▼人間の努力がなくていいわけではない。しかし努力で何事もなしうるという
わけでもない。そう思えることが、一人前の大人の状態だ、と私は思ってきた。
▼カトリック修道院の第一歩は、共同生活に耐えて一生を暮らすことだった。
隣に眠る人とカーテン一枚しか遮るもののない空間に自分のベッドがある。
食事は決められた時間に、出されるものを無言で食べる。そこでは、寝たい時
に寝るとか、食べたいものを買って食べるなどという気ままは、全く許されない。
▼ヨーロッパなどの、日本にはないような爵位を持った家とか、大財閥の娘に
生まれたような人でも修道院に入ると、まず最低この「人と共に」いる試練に
耐えるのである。
▼絆は昔から実に重いものだ、と皆わかっていたのである。その基本は、日本
では親子が同居することだった。それが戦後、欧米では夫婦で暮らすのが当然だ
と言って、多くの若い夫婦が親との同居を拒否した。実を言うと、年寄りの方も
わがままになったと言っていい。
▼しかし絆の基本は、家族が普段から心をかけ合うこと以外にない。もちろん、
友人も職場の人間関係も大切だが、親子兄弟の繋がりを断っておいて、今さら
「絆が大切」もないものだ、と私は思う。
相続税の世界には「小規模宅地の特例」という優遇税制があります。
色んな要件がある中で基本は、同居する相続人が自宅土地を引き継いだ場合、
自宅土地の評価を80%割り引いてあげましょう、という制度です。
戦前、日本では親子同居が基本だったという古き良き伝統を継承することを
税制も奨励しているのかもしれませんね。